『秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず』
- 世阿弥
- 1363年-1443年
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(追記)
難しい言葉だな。分かるようで分からない。
ネットを歩くと、こういう風に理解するものだと、説明のようなものがあ地位こちにあるけど、でもやはり良く分からない。
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龍安寺の石庭の話にも似ているのかな。常に隠された部分がある話だけど。猪口先生の授業で聞いた話。
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見えないところで努力する話も出てきたが、すっと入ってこない。困ったものだ。
隠された努力が実を結んで表に出てくる。不断の努力の賜物というやつだろう。
公開練習、オープンパフォーマンスは厭らしいものになるのかな。
謙虚の美学?。
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そもそも
秘する花を知るのは誰なの?
自分なの?他人なの?
もし自分なら、敢えて、”知る事”とやらなくても知っている。
もし他人なら、秘された花を知ることになって矛盾する。今ならプライバシー侵害かも。
秘すれば花なり
隠された努力を推察し賞賛しなさいということなら今の感覚でも分かりやすい。
ところが、
秘せずば花なるべからず
と来ると途端に 視界が閉ざされる。裏の努力を口にしてしまったら、自慢に聞こえて良くないということなの。
大昔の大鵬幸喜とかちょい昔の鈴木一郎(イチロー)とかを思い浮かべると分かりやすいが、もし、名も知らぬ人、実績もそこそこの人を思い浮かべたらどうなるかな。その人たちの秘された努力もまた花を言うのだろうか。
此処が大事なところだ。
世阿弥は有名人を念頭に言葉を残したのではあるまい。
世間の平凡な1人1人が秘された花を持つことの大事さを伝えているに違いない。
実を結ぶかどうかは問わない。自らの秘めた花、自分の信じる生き様を知る事、大切にすることの大事さを伝えているのだろうと。
さらに踏み込むなら、自分らしく生きること。その価値は自分が知っていれば十分。嫌、自分は自分のらしさを知って生きていくことが大事。秘するの意味も目的とか企みを持つことの意味になる。
などと暇に任せて令和になって改めて考えてみた。
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